企業が新規事業を展開していく過程で、導入期は順調に伸びていた売上やシェアが途中から伸び悩むことがあります。その原因の1つとして考えられているのが「キャズム」と呼ばれる現象です。
キャズムを乗り越え、製品やサービスをメインストリーム市場へと導くためには、アーリーアダプターとは異なる価値観を持つアーリーマジョリティの特性を深く理解し、計画的かつ具体的な戦略を実行する必要があります。単にマーケティングメッセージを変えるだけでなく、製品そのものや提供体制まで見直す包括的なアプローチが求められます。ここでは、新規事業をスムーズに進めるために、キャズムについて詳しく解説します。
「キャズム理論」とは?
「キャズム(chasm)」とは「深い溝」や「裂け目」を意味する英単語で、新規事業や新製品を市場に普及させていく過程で現れる壁を指します。1991年に米国の経営コンサルタントのジェフリー・ムーア氏が著書の中で「キャズム理論」を提唱し、広く知られるようになりました。
「キャズム」が新規事業の推進や新製品の普及を左右する
新しい事業や製品をリリースし、市場でのシェアを徐々に拡大させるプロセスで、導入期は新しい機能や目新しさ、話題性などで順調にシェアを伸ばしていくものの、成長期に入ると「キャズム」に陥るケースがあります。キャズムに陥ると売上やシェアの伸びが鈍化し、なかには最終的に淘汰されてしまう事業や製品も存在します。新規事業や新製品を普及させていくためには、キャズムを超える必要があるといわれています。
キャズムを乗り越え、製品やサービスをメインストリーム市場へと導くためには、アーリーアダプターとは異なる価値観を持つアーリーマジョリティの特性を深く理解し、計画的かつ具体的な戦略を実行する必要があります。
単にマーケティングメッセージを変えるだけでは不十分で、製品そのものや提供体制まで見直す「ホールプロダクト」型の包括的なアプローチが求められます。
キャズム理論の前提となる「イノベーター理論」について
キャズム理論のベースになっているのが、1960年代に米国の社会学者エベレット・M・ロジャース氏が提唱した「イノベーター理論」です。イノベーター理論は、新規の製品・サービスが市場へ普及していく過程を表したものです。
イノベーター理論における5つのタイプとそれぞれの訴求ポイント
イノベーター理論では、新しい製品・サービスが普及していく過程を、時系列で5つの消費者タイプに分類します。それぞれのタイプの特徴と訴求ポイントは次のとおりです。
イノベーター(革新者)
新製品・サービスや最先端の機能、斬新な使い方やライフスタイルなどに価値を見出す層です。新しい機能や性能を試すこと自体が目的である場合もあり、コストパフォーマンスにはあまりこだわらないといわれています。
アーリーアダプター(初期採用者)
新製品・サービスを常に探しており、それが自分のニーズや欲求に合う場合は早い段階で導入する層です。周囲がまだ導入していない段階で試し、その情報を積極的に発信するため、インフルエンサーやオピニオンリーダーになる可能性があるとされています。
アーリーマジョリティ(前期追随者)
新製品・サービスに関心があり、「流行に乗り遅れたくない」という思いがある一方で、安心感や実績を重視する層です。周囲の人の口コミや、インフルエンサーやオピニオンリーダーの意見に影響されやすい特徴があるといわれています。5つのタイプの中で、次に紹介するレイトマジョリティと並んで比率が高いため、アーリーマジョリティに浸透すると一気に新製品・サービスの普及率が高まるとされています。
レイトマジョリティ(後期追随者)
新製品・サービスの導入に消極的で、周囲の人が導入しているのを確認してから自身も追随するタイプです。アーリーマジョリティと同程度の比率で存在するといわれています。
ラガード(遅滞者)
新製品・サービスにあまり興味を示さない、もっとも保守的な層です。製品・サービスがこの層まで浸透すると、世の中に定着したといえます。
イノベーター理論とキャズム理論の違い
イノベーター理論では、アーリーアダプター層がマーケティング上もっとも重要な顧客タイプと考え、この層への浸透に力を注ぎます。一方、キャズム理論では、イノベーターとアーリーアダプターを「初期市場」、アーリーマジョリティとレイトマジョリティを「メインストリーム市場」と考え※、その間に「キャズム」(製品・サービスを普及させるときに障害となる大きな溝)があるとされています。
※ラガードまでを「メインストリーム市場」とする説もあります。

キャズムはなぜ超えにくいのか
初期市場の顧客は「新しさ」や「革新性」に重きを置くのに対して、メインストリーム市場の顧客は「安心感」「信頼性」「実績」を求める傾向があります。そのため、メインストリーム顧客層は新しいものや今まで世の中に存在しなかったものに不安を感じ、周囲の人が導入していない製品・サービスには様子見をしてしまう傾向にあることから、キャズムが生まれてしまうと考えられます。この傾向は製品・サービスが革新的であればあるほど強まる可能性があります。
キャズムを超えるヒント
キャズムを超えるには、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの特徴と違いを把握し、それぞれの層に合った攻略方法を考える必要があるといわれています。
アーリーアダプターとアーリーマジョリティのニーズの違いを理解する
アーリーアダプターは高い情報感度と強い好奇心を持ち、「新しさ」になによりも魅力を感じるとされています。他の人々に先んじることが重要で、それが導入のきっかけになる可能性もあります。また、斬新な製品・サービスであれば、多少使い勝手が悪くても、自分なりに工夫して利用し続けることもあります。
一方、アーリーマジョリティは新しいものに興味はあるものの、「信頼できる製品なのか」「どんな人が購入しているのか」など、安心できる情報を集めてからでないと導入に踏み切りづらい傾向があります。使い勝手が悪い場合は、アーリーアダプターのように自分で工夫するよりも、使い勝手が改善されてから導入を検討するといわれています。キャズムを超えていくためには、こうした両者の違いを理解し、それぞれに適したマーケティング手法を展開していくことが必要だとされています。
キャズムを読み解く
どのような場合にキャズムが生じるのか、一例を各種データからご紹介します。
キャズムを超えた事例
今やスマートフォンは多くの人が利用している情報通信機器として浸透しましたが、個人保有率の推移(図1)を見ると同じペースで増加し続けたわけではないことがわかります。2012年から2013年にかけて保有率が23.1%から39.1%へと急速に伸びており、ここでキャズムを超えたことが推測できます(図1)。その背景には、スマートフォンそのものの利便性が広く知られるようになったことはもちろん、LTEが普及して移動通信の方法がスムーズになったことや、SNSがコミュニケーションや情報収集の手段として急速に定着したことがあると考えられます。

世代により存在するキャズム事例
消費者のタイプだけでなく、世代などによってもキャズムは存在します。世代間で明らかなキャズムが存在していた例としてネットショッピングが挙げられます。総務省の調査(図2)によると、1世帯あたりのネットショッピング支出額は世帯主の年齢が50歳代と60歳代の間に大きな隔たりがあります。同じ世代でスマートフォンやタブレット端末の所有数(図3)を見ると、やはり50歳代以下の世代に比べて60歳代以上の保有率が低く、ここに世代間のキャズムがあったことがわかります。


自社のビジネスにキャズム理論を導入する実践5ステップ
キャズム理論やそれを乗り越えるための戦略を理解したら、次はいよいよ自社のビジネスに具体的に適用していく段階です。ここでは、キャズム越えを目指すための実践的な5つのステップを解説します。これらのステップを参考に、自社の状況に合わせた具体的なアクションプランを策定・実行していきましょう。
ステップ1:現状分析と課題の明確化
まず、自社の製品・サービスが市場普及サイクルのどの段階にあるのか、そしてキャズムに直面しているのかどうかを客観的に評価します。
- 市場データの分析:売上成長率の推移、顧客獲得数の変化、市場シェア、顧客獲得単価(CPA)などを分析し、停滞や鈍化の兆候がないか確認します。
- 顧客分析:既存顧客の属性(アーリーアダプターか、アーリーマジョリティか)、顧客からのフィードバック(評価されている点、不満点)、解約理由などを詳細に分析します。
- 競合分析:競合製品の動向、市場におけるポジショニング、強み・弱みを把握します。
- 前述の「キャズム診断チェックリスト」も活用し、課題を具体的に特定します。この段階で、「キャズムのどの部分で苦戦しているのか」「主な障壁は何か」を明確にすることが重要です。
ステップ2:ターゲット顧客(アーリーマジョリティ)のペルソナ設定
キャズムを越えるためには、次に攻略すべきアーリーマジョリティの具体的な人物像(ペルソナ)を明確に定義する必要があります。
- 定量 定性調査の実施:アンケート調査、インタビュー、市場データ分析などを通じて、アーリーマジョリティ層の具体的なニーズ、課題、価値観、購買行動、情報収集方法などを徹底的に洗い出します。
- ペルソナの作成:収集した情報に基づき、具体的な年齢、職業、役職、家族構成、ライフスタイル、ITリテラシー、抱えている課題、製品に期待する価値などを設定したペルソナを複数作成します。「誰に価値を届けるのか」をチーム全体で共有できるようにします。
ステップ3:ホールプロダクトの設計と提供価値の再定義
設定したアーリーマジョリティのペルソナに向けて、彼らが真に求める「ホールプロダクト(完全な製品・サービス)」を設計し、提供価値を再定義します。
- ペルソナの課題解決に貢献する価値の明確化:自社のコア製品だけでなく、関連サービス、サポート、マニュアル、導入支援など、ペルソナが安心して製品を利用し、期待する成果を得るために必要な全ての要素を洗い出します。
- 不足要素の補完:現状の提供物で不足している要素があれば、それを補完するための具体的な計画(開発、提携など)を立てます。
- 価値提案の見直し:アーリーマジョリティに響く、実用性、信頼性、費用対効果、導入の容易さといった点を中心に、自社製品の価値提案(バリュープロポジション)を再構築します。
ステップ4:コミュニケーション戦略の立案と実行
再定義した提供価値を、アーリーマジョリティのペルソナに効果的に伝えるためのコミュニケーション戦略を立案し、実行します。
- メッセージングの最適化:ペルソナの課題や関心事に寄り添い、専門用語を避け、具体的で分かりやすい言葉で、製品のメリットや導入事例を伝えます。
- チャネル選定:ペルソナが日常的に情報を収集するチャネル(業界専門メディア、展示会、セミナー、信頼できる第三者のレビューサイト、既存顧客からの紹介など)を選定し、集中的にアプローチします。
- コンテンツ作成:導入事例集、顧客の声、製品デモンストレーション動画、比較資料、ROI計算ツールなど、ペルソナの購買検討プロセスを後押しする質の高いコンテンツを作成し、発信します。
ステップ5:効果測定と戦略の柔軟な見直し
戦略を実行したら、その効果を定期的に測定し、市場や顧客の反応を見ながら柔軟に戦略を修正していくことが不可欠です。
- 重要業績評価指標(KPI)の設定:売上、顧客獲得数、顧客満足度、ウェブサイトのトラフィック、コンバージョン率など、戦略の成果を測るための具体的なKPIを設定します。
- 定期的な効果測定と分析:設定したKPIを定期的にモニタリングし、目標達成度や戦略の有効性を評価します。
- 改善サイクルの実施(PDCA):分析結果に基づき、戦略や戦術の課題点を特定し、改善策を立案・実行します。キャズム越えは一朝一夕には達成できません。市場の変化に迅速に対応し、粘り強く改善を続ける姿勢が求められます。
これらのステップはあくまで一般的な指針です。自社の製品特性、市場環境、リソースなどを考慮し、最適な形で取り入れてください。